黄金伝説における聖ミカエル
名、出現、勝利、奉献、記憶祝日
キリスト教の中世ヨーロッパにおいて、黄金伝説は、聖書についで一広く読まれた書物である。
北イタリアのドメニコ会修道士、年代記編集者、又は第八代大司教のジェノヴァとして知られているヤコブス・デ・ウォラギネによって、ラテン語でからの間に書かれた。
この作品んを基本的でも紹介するのはとても単純なことではありませんが、ものをいうには、既存だった約百五十人の聖人たちあるいは聖人集団や殉教者たちの列伝史料を編纂しながら、前から存在していた異教の暦の中に一年のカトリック教会の典礼暦を組み込んで巧妙に同化させながら、それを切っ掛けにして福音書からキリストと聖母マリアの生拝の主な出来事を解釈しながらも、事実深く当時社会の様々分野まで、例えば位相幾何学などを含めて、浸透したキリスト教的な神話を作り上げたと書いておけば、間違いありません。
ヨーロッパ中世文学研究者フィリップ・ヴァルテール著の『中世の祝祭 - 伝説・神話・起源』の序章で、「キリスト教定着以前に存在した(...)野生の記憶に由来する(...)「迷信」、伝説といった太古の記憶」が述べているように、異教の旧暦の要素が浮かんでくる文書として、特に興味深く、魅力的だと思われます。
以下では、もちろん極小さいな部分である、139章だけをしか巡礼所としてのモン・サン=ミシェル (新しいタブで開きます) の元にあると作品の中で言われているから紹介しません。
大天使ミカエル (新しいタブで開きます)と雄ウシ、まだまだいろいろが登場します...驚くほどに語りが大天使から止まることなく少しづつ密かに天使たちの信仰の語りに展開します。
計り知れない存在と感覚ある実在とをいろいろ考えさせられるのであろうから、信じるか信じないか別にして、自分で出来れば最後まで、当時の独特な強い主教色を怖がらずに、読むことをお勧めします。
黄金伝説の139章の文書:聖ミカエル
聖ミカエルの名
ミカエルとは、〈だれが神に比べられようか〉という意味である。聖グレゴリウスは、こう書いている。
「大きな奇跡が起こるときには、いつもミカエルが派遣される。その業とその名前から、このような偉大な奇跡は神以外のだれもなしえないということが明らかになるためである」
多くの偉大な奇跡が聖ミカエルのはたらきだとされるのは、このためである。
というのは、ダニエルが書いているように、ミカエルは、「憎むべき破壊者」があらわれるときに立ちあがり、選ばれた民を守ってくれるからである。
たとえば、彼は、竜とその手下どと戦い、彼らを天国から突き落とし、大勝利をおさめたし(『黙示』12章7節~9節)、悪魔がモーセの遺体を祀って、ユダヤ人たちにこれを神として拝ませようとしたときも、遺体をめぐって悪魔と争った。聖人たちのたましいを受けとり、喜びの楽園にみちびいていくのも、ミカエルである。
彼は、もとユダヤ教会堂の守護者であったが、主は、キリスト教会の守護者とされた。
エジプト人に天罰をくだし、紅海をふたつに分け、イスラエルの民をみちびいて荒野をわたり、約束の地につれていったのも、ミカエルであったと言われる(『出エジプト記』)。彼はまた、聖なる天の軍勢のなかではキリストの旗手をつとめる。
彼は、主の命令によってオリヴ山上で反キリストにを力をもって倒すであろう。死者たちは、彼の声によって復活すると言われている。 最後の審判の日に聖十字架と聖釘と聖槍といばらの冠をもってくるのも、彼であるとされている。
大天使聖ミカエルの祝日は、彼の出現と勝利と奉献と記憶の日とよばれている。
出現
ガルガヌスと雄牛の出現
聖ミカエルの出現は、いろいろある。最初の出現は、ガルガーノ山上であった。
ガルガーノはアプリア地方の山で、シポントウムという町の近くにある。主の、この町にガルガヌスという名の男が住んでいた。 山の名は、この男の名前にちなんでつけられた。 しかし、男の名前がこの山の名からとられたとしている本もある。
ガルガヌスは、数えきれないほど多くの牛や羊を飼っていた。
あるとき、彼の牛や羊が山腹で草を食んでいると、一頭の雄牛が群れからはなれて、山頂に登っていった。ほかの牛や羊が山から下ってきたときも、この雄牛だけもどっていないことがわかった。
そこで男は、大勢の牧童といっしょに雄牛をもとめて道なき道を登っていき、ついに山頂の、とある洞穴の入口でこの牛を見つけた。
男は、群れからはなれて勝手な行動をしたことに腹をたてて、雄牛めがけて毒矢を放った。
ところが、矢は、風になぶられかのように向きを変えて、射手のほうに舞いもどってきた。
町の人びとは、これを知ってたいへんおどろき、この大きな奇跡はなにを意味しているのでしょうか、と司教にたずねた。
司教は、の斎食(断食)を指示し、これにはどういう意味があるのか主にお伺いすることにしましょう、と答えた。
そのとおりにしていると、聖ミカエルが司教にあらわれ、こう告げた。
「あの場が自分の矢に射られたのは、わたしの意志によることです。 かく言うわたしは、大天使ミカエルであって、地上のこの場所が気に入って、ここに住み、この地を守ることにしました。 よって、あの奇跡でもって、自分がこの土地の守護者であり番人であることを知らせようとしたのです」
そこで、司教と町の住民たちは、ただちに行列をくんで、奇跡の起こった場所に行き、洞穴のまえでうやうやしくお祈りをささげた。 しかし、洞穴のなかに入ることははばかった。
トウンバ岩山での出現
二度目の出現は、主ののことであったと言われている。
アプリカの町から六マイルほどはなれた海辺のトウンバというところで、聖ミカエルがこの町の司教にあらわれ、この地に教会を建て、ガルガーノの山でおこなわれているように、わたしを記念する場所としなさい、と命じた。
司教がどこに教会を建てたものかと思案していると、泥棒どもが隠した雄牛の見つかる場所に建てなさいというお告げがあった。
また、司教がどれほどの広さの教会にしたものかと迷っていると、雄牛の足跡が地面に残っているだけの広さにしなさいというお告げがあった。
ところが、この場所には、人力では動かせないほどの大きな岩がふたっあった。
すると、聖ミカエルがある男にあらわれ、くだんの場所に行って岩を動かしなさいと命じた。 そこで、男は、出かけていって、ふたつの岩をかるがると持ちあげた。
こうして教会ができあがると、聖ミカエルがガルガーノの教会の祭壇に掛けておいた前帳の一部と、聖ミカエルがそのうえに立っていた大理石の一部がはこばれてきた。
ところで、この土地には水がなかった。 そこで、人びとは、これまた聖ミカエルの命令で固い岩に穴を穿った。 すると、水が滾々と湧きだしてきた。 今日、ここからゆたかな水が流れでている。
聖ミカエルの慈悲のあらわれである。 この出現、に祝われる。
おなじ町で、もうひとつ記憶にあたいするような奇跡が起こったと言われる。
この山は、周囲を海にかこまれているが、聖ミカエルの日には、二度海の潮が引いて、自由に渡れるようになる。
昔のことだから、実際そういうことがあったのであろう。
あるとき、大勢の人びとがこの教会に詣でた。なかにひとり出産まちかの婦人がまじっていた。
ところが、いったん引いたかに見えた波浪が、突然またものすごい勢いでもどってきた。人びとはみな、怖れおののいて岸のほうに逃げ帰った。
身重の婦人だけは、逃げおくれて、波にのまれてしまった。
しかし、大天使聖ミカエルが彼女をしっかりつかまえていてくれたので、彼女は、海のなかで無事子供を生みおとし、腕に抱いて乳を飲ませた。
そして、潮がまた引いて通り道ができると、うれしそうに子供といっしょに水のなかからあがってきた。
聖天使城での出現
三度目の出現は、ある本によると、教皇グレゴリウスの時代にローマで起こった。
というのは、教皇が俗に〈よこね〉とよばれているペストの流行を終わらせるために大がかりな祈願行列をくりだし、人びとの救霊のために祈っていたとき、ハドリアヌス霊廟とよばれていた城のうえにひとりの天使が立っているのが見えた。
天使は、血にぬれた剣をぬぐい、鞘におさめた。
教皇は、これを見て、神が自分の祈りを聞きとどけてくださったのだと理解し、その場所に天使をたたえて教会を建てた。それにちなんで、この城も、今日にいたるまで 〈聖天使城〉 とよばれている。
この出現は、聖ミカエルがガルガーノの山にあらわれて、シポントゥムの町の人たちに勝利をあたえた出現とおなじく、に祝われる。
天上位階での出現
第四の出現は、天使たちの階級秩序のなかにある。
- 第一の階級は、〈エピパニア〉すなわち上級の出現とよばれる。
- 第二の階級は、〈ヒュペルパニア〉すなわち中級の出現とよばれ、
- 第三の階級は、〈ヒュポパニア〉すなわち下級の出現と言われる。
階級秩序という語は、〈神聖な〉の意のイエラルと〈王君〉の意のアルコスとから来ていて、〈聖王国〉という意味である。
これら三級には、それぞれ三隊がある。
上級には
- 熾天使、
- 智天使、
- 座天使
の三隊がある。
中級には、ディオニュシウスによると、
- 主天使、
- 力天使、
- 能天使
の三隊がある。
下級には、おなじくディオニュシウスによると、
- 権天使、
- 天使
- 大天使、
の三隊がある。
地上の王君に仕える家来たちとおなじく、これらの聖秩にも、それぞれ位格と職能に違いがある。
というのは、ひとりの王に仕える家来たちのなかには、侍従や顧問や近侍のように直接王個人に仕える者がいる。 上級の三隊は、これに似ている。 また、
- 侍従長や
- 参事官
- 宮廷判事のように、
国政全般にたずさわり、個々の地域に配属されない官僚たちもいる。 中級の三隊は、これに相当する。 さらに、
- 代官や
- 城代や
- その他の下級役人のように、
国内の一地域を受けもつ者もいる。 下級の三隊は、これに似ている。
上級三隊は、神のおそばにいて、神と一家をなしている。 このためには、三つのことが必要である。
- まず第一は、至高の愛である。 これは、セラピムがもっている。 熾天使とよばれるのは、そのためである。
- つぎに、完全な認識である。 これは、ケルビムがもっている。 智天使と言われるのは、そのためである。
- 必要な第三のものは、不断の把握と享受である。 これは、トロネがもっている。 座天使とよばれるのは、そのためである。
主は、彼らをご自身のなかにやすらわせる一方で、彼らのうえに座し、やすらわれるからである。
中級三隊は、人間全般にかかわることをつかさどっている。 この仕事は、三つのことから成っている。
第一は、指図や命令をあたえることである。 これをおこなうのは、ドミナティオネスすなわち主天使である。 主天使たちは、下級の天使たちを支配する権限をもち、彼らが神のために勤めるのを指揮し、あらゆる命令をあたえる。 たとえば、『ザカリア書』(2章4節)で、ひとりの天使がべつの天使にむかって、
「走っていって、あの若者に伝えなさい」と言うのがそれである。
- 第二の仕事は、実行し活動することである。 これをおこなうのは、ウィルトゥテスすなわち力天使である。 力天使たちにとって、命じられたことで実行不可能なことはひとつもない。 神にたいする勤めをおこなううえでどんな困難ものりこえる力をあたえられているのである。 それゆえ、彼らに課せられたとくに大事な仕事は、奇跡をおこなうことである。
- 第三の仕事は、妨げ禁じることであって、それによってどんな障害や面倒も放逐するのである。 これをおこなうのは、ポテスタテスすなわち能天使である。 能天使たちは、すべての反対者どもを屈服させる権能をもっている。 たとえば、「トビト書」(8章3節)に、天使ラファエルはひとりの悪魔を上部エジプトの荒野まで追いかけていったと書かれているのがそれである。
下級の三隊は、その権能のおよぶ範囲を限定され、特定されている。
- ある国だけをつかさどる者もいる。 これが、プリンキパトゥスすなわち権天使である。 たとえば、「ダニェル書」に出てくる「ペルシアの国の君」とは、ペルシア人たちのうえに権勢をもつ天使をさしている。
- また、ひとつの町のようなある集団のうえにだけ君臨している天使もいる。 これが、アルカンゲリすなわち大天使である。
- さらに、個々の人間を守護してくれる天使もある。 これは、たんに天使とのみよばれる。 たんなる天使たちは、ひとりの人間にだけかかわるから小事を伝えるとされている。 これにたいして、大天使は、大事を伝えるとされている。 というのは、個人の救済よりも多くの人たちの救済のほうが大事だからである。
上級三隊の決めかたについては、聖グレゴリウスと聖ベルナルドゥスも、上述のディオニュシウスの見解と一致している。 というのは、このふたりの聖人も、
- 熾天使は神を喜びとすること、すなわち熾烈な愛を意味し、
- 智天使は深い認識をあらわし、
- 座天使は神のなかにやすらうことをあらわすと言っているからである。
ところが、中級と下級の決めかたになると、ニつの隊にかんしてディオニュシウスと意見が食いちがっているようにおもわれる。
それは、権天使と力天使のニ隊についてである。
というのは、グレゴリウスとベルナルドゥスは、ディオニュシウスと見解が異なり、中級の隊は支配統治をつかさどり、下級の隊は奉仕することが任務であると述べているからである。 そして、天使たちは、三つにわかれて支配する。
- 善霊を支配する者、これが主天使である。
- 良き人間たちを支配するのが、権天使であり、
- 悪霊を支配するのが、能天使である。
ここから中級天使たちの序列が明らかになる。 奉仕にも三段階がある。
- 奇跡をおこなうこと、
- 大事を教えること、
- 小事を教えること
の三つである。
- 第一が力天使の勤め、
- 第二が大天使の役目、
- 第三が天使の仕事であるという。
食べることも、飲むこともできない人に出現
五度目の出現は、『三部教会史』に書かれている。 コンスタンティノポリスの近くに小さな町があって、むかしウェスタ女神を崇拝していた。 ところが、ここに聖ミカエルのためにひとつの教会が建てられた。 そのために町は、ミカエリオンともよばれている。 さて、アクイリノスという名の男がいて、猩紅熱ともいうはげしい熱病にかかっていた。 医者たちが解熱用の水薬をあたえても、それを吐きだすばかりか、食べたり飲んだりしたものまでみんなもどしてしまうのであった。すでに死期もせまってきたとき、彼は、ミカエリオンの町にはこんでいってもらった。 死ぬにしても治るにしてもこの町しかないとおもったのである。 すると、聖ミカエルが彼にあらわれて、蜂蜜とぶどう酒と胡椒をまぜた飲みものを作りなさい、どんな食べものも、これに浸してから食べるのです、そうすれば病気はすっかりよくなります、と告げた。 男がそのとおりにすると、さしもの熱病も快癒した。 医術によると、熱病患者に刺激的な飲みものはよくないとされているのに、みごとに常識をくつがえしたのである。
大天使ミカエルの勝利
つぎに、この祝日は、聖ミカエルの勝利の日とも言われる。聖ミカエルをはじめ天使たちの勝利は、さまざまのものがある。
シポントゥムのキリスト教徒たちの勝利
第一の勝利は、聖ミカエルが上述のシポントゥムの人びとにもたらした勝利である。 この勝利は、つぎのようなものであった。
聖ミカエルの洞穴の発見後しばらくたってから、当時まだ異教徒であったナポリの市民たちは、兵を送って、シポントゥムの町とそこから五十マイルほどはなれたベネヴェントの町を攻撃した。
このとき、シボントゥムの司教は、三日間の休戦をもとめ、そのあいだ断食をして町の守護者である聖ミカエルにお助けを祈願するように、と町の人びとに助言した。
三日目の夜、聖ミカエルが司教にあらわれて、願いは聞きとどけられたと言い、勝利を約束し、翌朝に敵軍にむかって打ってでるようにと命じた。
さて、戦いがはじまると、ガルガーノ山がはげしく鳴動し、おびただしい稲妻が降り、山頂のまわりに黒雲がたちこめた。
こうして、炎の矢とシポントゥム兵の剣のために六百名ものナポリ兵が死んだ。
生き残った兵士たちも、大天使ミカエルの力のほどを知り、キリスト教の信仰のまえに屈した。
ルキフェルに対する勝利
聖ミカエルが得たニ番目の勝利は、彼が竜すなわちルキフェルとその一味を天国から突き落としたときの勝利である。
これについては、『ヨハネの黙示録』(12章7節)に書かれている言葉が引用される。
「さて、天では大きな戦いが起こった。
ミカエルとその配下の天使たちが竜と戦ったのである」つまり、ルキフェルが神と肩をならべようとしたので、天の軍勢の旗手であるミカエルがあらわれて、ルキフェルとその一味を天から突き落とし、最後の審判の日まで暗い中空に追放したのである。
彼らは、もはや天にも明るくて心地よい空中の上層の部分にも住むことを許されず、人間にひどい害をあたえかねない地上のわれわれのもとに住むこともできない。
彼らがいるところは、天と地のあいだの中空である。
頭上には彼らが追われた天の栄光があり、それを見ては後悔のほぞを嚙み、足下にはこの地上があり、彼らが追いだされたところへ人間たちがのぼっていくのを見てはげしい羨望の念にさいなまれることになる。
もっとも、神のはからいによって、ときには地上に住み、われわれを試みることもある。
彼らを見たことのある信心ぶかい人たちによると、彼らは、まるで蝿のようにわたしたちの身のまわりを飛びまわっている。
というのは、彼らは、数がものすごく多く、蝿のように中空にむらがっているからだそうである。
これについてハイモは、
「昔の哲学者たちも言い、現代の教師たちも信じているように、空中には悪魔や悪霊どもがうようよしている」と書いている。
彼らの数は、このょうにおびただしく多いが、それでも、オリゲネスの見解によると、われわれが彼らのひとりやっつけるたびに、その軍勢は、すこしずつ減っていくという。
彼らのひとりがある信心ぶかい人間にやりこめられると、その人を2度とおなじ罪で誘惑することは許されないからである。
毎日天使たちがかちとる勝利
三つ目の勝利は、天使たちがいまなお毎日われわれのために戦い、われわれを悪魔どもの誘惑から解放してくれるときにかちとる勝利である。
天使たちがわれわれを悪魔どもの誘惑から解放してくれるのには、三通りのやりかたがある。
第一のやりかたは、悪魔の力をいましめるのである。
これについては、『黙示録』(10章2節から3節まで)に、悪魔をしばりあげて底なしの淵に投げこんだ天使のことが記されている。
『トビト書』(8章3節)にも、上部エジプトの荒野で天使にしばりあげられた悪魔のことが出てくる。
ところで、悪魔をしばるとは、悪魔の力を奪いとることにほかならない。
天使がわれわれを誘惑から解きはなつ第二のやりかたは、われわれの欲望をしずめるのである。
これについては、『創世記』(32章25節)に、天使がヤコブの股のつがいにふれると、たちまちそこが干からびたという話が記されている。
もうひとつのやりかたは、われわれの意識に主のご受難の記憶をしっかりおぼえこませるのである。
『黙示録』でひとりの天使が「われわれが神のしもべたちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木もそこなってはならない」(6章3節)とさけぶのが、それである。
また、『エゼキエル書』に「イェルサレムの町のなかでおこなわれているすべての憎むべきことを嘆き悲しむ人びとの額にしるしをつけよ」(9章4節)とあるのも、それである。
というのは、このしるしとは、十字架の形をした文字のことだからである。
そして、このしるしをつけられた人びとは、天使の打擲を怖れることはない。
そのあとに、(9章6節)
「しかし、身にしるしのある者は殺してはならない」と言われているのは、そのためである。
反キリストにかちとる勝利
四つ目の勝利は、大天使ミカエルが反キリストを滅ぼすときにかちとる勝利である。
『ダニエル書』(12章1節)にあるように、そのとき大いなる君ミカエルは、反キリストから守り救ってくれる者として選ばれた人びとのまえに力づよく立つであろう。
すると、反キリストは、死んだふりをする。『黙示録』の「このけものの頭のひとつが傷を受けて、死んだように見えた」(13章3節)という言葉について、注解書はそう述べている。 そして、姿を隠していて三日目にあらわれて、〈われ復活せり〉と豪語するであろう。 すると、彼の手下の悪魔どもが、魔術を使って彼をはこびあげ、彼は、中空にのぼっていく。人びとはみな、これを見ておどろき、彼を拝む。
最後に彼は、オリヴ山に登るであろう。 そして、『テサロニケ人への第ニの手紙』の「主イエスは、この者を殺すであろう」(2章8節)について注解書が述べているように、自分の幕屋の露台の、主とむかいあった場所に立つ。 そのときミカエルがあらわれて、彼を殺すであろう。
グレゴリウスによると、『黙示録』の
「さて、天では大きな戦いが起こった。
ミカエルとその天使たちが竜と戦いを挑んだのである。
竜と使いたちも応戦したが、勝てなかった」
というくだりは、以上のような戦いとその勝利を言ったものと理解しなくてはならない。
つまり、この言葉は、聖ミカエルの3つの戦いをさしていると理解されるのである。
- まず第一に、ルキフェルを天から突き落としたときの戦いである。
- つぎに、われわれを誘惑しようとする悪魔たちとの戦い。
- さらに、ミカエルは、いま述べたように、世の終わりのときに反キリストと戦うのである。
奉献の祝日
第三に、この日が聖ミカエル奉献の祝日ともよばれるのは、この日に聖ミカエルがあのガルガーノ山上の洞穴はすでに奉献されて、自分に献じられていると告げたからである。
というのは、シポントゥムの町の人びとは、敵軍に大勝して町に帰ってからも、あの山上の洞穴に入るべきか、それともこの場所を奉献すべきかで迷っていたからである。
町の司教は、教皇ペラギウスの意見をもとめた。教皇は、
「人間があの教会を奉献するのなら、勝利を得た日にするのが一番よいのだが、聖ミカエルにもお考えがあるかもしれないから、思召しをお教えくださるようにお願いしなくてはならない」と答えた。
そこで、司教と町の人びとは、断食をして祈った。 すると、に聖ミカエルが司教にあらわれて、こう告げた。
「わたしが建てた教会をあなたがたが奉献することはありません。
というのは、建立者であるわたしが自分で奉献したからです」
そう言ってから、あす町の人びとといっしょに山に登り、洞穴に入って、わたしに祈りをささげ、わたしを町の守護者としなさい、と命じた。
さらに、奉献のしるしがほしいと言うのであれば、東のほうからわき道を洞穴まで登ってくるのです、そうすれば、ひとりの人間の足跡が大理石のうえに刻まれているのが見つかるでしょう、と告げた。
翌日、司教と町の人びとが山に登り、洞穴に足をふみ入れてみると、そこに三つの祭壇をもった大きな地下聖堂が見っかった。 三つの祭壇のうち、ふたつは南むき、ひとつは東むきであった。
この東むきの祭壇は、とくに荘厳で、赤い前帳がかけてあった。
人びとは、ここでおごそかにミサをおこない、ひとりずつ聖体を拝領した。
聖体の秘跡の制定である。 ミサがすむと、大よろこびしながら町に帰った。 司教は、洞穴の聖堂でいつも聖務をおこなう司祭と聖職者を定めた。
この洞穴には、たいへん甘味な清水が湧きでている。聖体を拝領してからこの清水を飲むと、いろんな病気が治る。
これら一部始終のことを聞いた教皇は、以後この日を聖ミカエルとすべての天使たちをたたえる祝日とするょうに命じた。
聖ミカエルの記憶祝日
第四に、この祝日は、聖ミカエルの記憶ともよばれる。
なぜなら、われわれは、この日すべての天使たちの記憶をおこない、天使たちすべてをともに崇敬するからである。
われわれが天使たちに称賛と栄誉をたてまつるのは、多くのことのためである。
- 天使は、われわれの守護者であり、
- 奉仕者であり、
- 兄弟であり、
- 同胞である。
- 天使たちはまた、われわれのたましいを天にはこんでいき、
- われわれの祈りを神のおんまえにとどけてくれる。
- 天使たちは、至高の王のけだかい騎士であり、
- 悲しめる者たちの慰め手である。
天使たちがわれわれの守護者だからである
われわれが天使たちを崇敬しなくてはならないのは、まず第一に、彼らがわれわれの守護者だからである。 それぞれの人間には、ふたりの天使がついている。 われわれを誘惑する悪天使とわれわれを見張ってくれる善天使とである。 善天使は、誕生のときからずっとわれわれについていてくれる。
つまり、母の胎内にやどったときから、さらに母の胎内を出るときも、大人になってからも、ずっと人間についていてくれるのである。
人間は、この三つの時期にわたって天使に守ってもらわなくてはならない。
- 母の胎内にいるまだ小さいときでも、すでに死と地獄落ちの危険があるし、
- 生まれてからもまだ幼いころは、洗礼を受けられなくなる危険がある。
- 大人になってからは、さまざまな罪の罠にかかる心配がある。
悪魔は、大人の人間を試みるのが好きである。 分別を奸計でまどわせたり、意志を誘惑でそそのかしたり、長所を力ずくで抑えつけたりするのである。
こうした理由から、人間に守護の天使をつけてやる必要があるのである。
天使は、人間を育て、悪魔の奸計に負けないようにみちびき、悪魔の誘惑に抗して善行をうながし、悪魔の暴力と抑圧に屈しないように助けてくれるのである。
天使が守ってくれた結果が人間のなかにどのようにあらわれるかと言うと、四通りのあらわれかたがあると理解することができる。
第一のあらわれは、人間のたましいが聖寵を受けて善にむかって成長していくことである。
天使は、これを三つのしかたでおこなう。
- まず、天使は、善をさまたげるすべてのものを滅ぼす。 『出エジプト記』(12章28節以下)で天使がエジプト人のすべての初子を打つのが、それである。
- つぎに、天使は、われわれからすべての怠情をとりのぞく。 『ザカリア書』に「主の御使いは、眠っている人を起こすように、わたしを呼びさました」(4章1節)と書かれているのが、それである。
- 天使は、さらに人間を悔悛の道にみちびき、またつれて帰る。 『トビト書』(5章)で天使がトビアスの旅の道案内をつとめるのが、それである。
第二のあらわれは、人間が罪に落ちなくなることである。 天使は、人間が罪に落ちるのを三つのしかたでさまたげる。
- まず、未来の災いをまえもって阻止する。 『民数記』(22章24節)でイスラェルを呪うために家を出たバラームを天使が途中でさまたげたと書かれているのが、それである。
- つぎに、過去の罪を罰し、人間をそれから解きはなつ。 『士師記』(2章1節から4節まで)に、天使がイスラエルの子らを主の命令にしたがわなかったことでとがめると、人びとは声をあげて泣いたと書かれているのが、それである。
- さらに、現在の罪を断固として阻む。 これは、天使がロトとその妻をソドム(すなわち罪の悪習)からむりやりにつれだしたことのなかにしめされている。
第三のあらわれは、人間が罪に落ちても再起することである。 天使は、これも三つのしかたでおこなう。
- まず、天使は、人間に痛悔をさせる。 『トビト書』(11章11節)に、トビアスが天使に教えられて父親の眼(すなわち、霊の眼)に胆汁を塗る話が出てくるが、これが痛悔なのである。
- つぎに、天使は、告解をさせるために人間のロを清める。『イザヤ書』(6章6節から7節まで)に、天使がイザヤのロを清める話出ている。
- さらに、天使は、人間を悔俊させる。 これについては、『ルカによる福音書』(15章7節)に、ひとりの罪びとが悔いあらためたならば、天は九十九人の正しい人にたいするよりもよろこばれるであろう、と書かれている。
四つ目のあらわれは、悪魔がしかけるような大きな、また多くの罪に人間がもはや落ちなくなることである。 天使は、これも三つのしかたでおこなう。
- まず悪魔の力を弱め、
- つぎに悪の欲望を抑え、
- 最後に、すでに述べたように、主のご受難の記憶をわたしたちの意識にしっかりおぼえこませる。
天使たちがわれわれの奉仕者だからである
われわれが天使たちを崇敬しなくてはならない第二の理由は、彼らがわれわれの奉仕者だからである。
というのは、『ヘブル人への手紙』(1章14節)にもあるように、
天使たちはみな、「仕える霊」だからである。
彼らはみな、われわれに奉仕するために遣わされる。
- 上級の天使たちは、中級の天使たちのもとに、
- 中級の天使たちは、下級の天使たちのもとに、
- そして、下級の天使たちは、われわれ人間のもとに遣わされる。
しかし、この派遣は、
- 神の慈悲である。 神は、われわれの救霊のためにいと深い愛によって神ご自身とむすばれている最も高貴な霊たちをわれわれのもとに遣わされるのであるから、これは、とりもなおさず神の慈悲というものである。
この派遣はまた、天使たちの愛でもある。 というのは、他人の浄福をもとめるのは、すなわち燃える愛というものではないであろうか。 預言者イザヤも、天使たちとおなじ愛に燃えていたので、
「ここにわたしがおります。主よ、わたしをお遣わしください」(『イザヤ』六の八)と言うのである。
天使たちも、われわれが悪魔と戦いながら彼らの助けを必要としているのを見ると、助けに行かずにはおれなくなる。つまり、天使たちの愛の律法は、われわれのもとに派遣されたときに成就するので。
さらに、天使たちの派遣は、われわれの弱さのためでもある。
- つまり、天使たちが遺わされるのは、まず第一に、われわれの愛の願いに火を点じるためである。 よく天使たちが火の車に乗って遣わされてきたと書いているのは、そのことを比喩的に言ったのである。
- 第二に、われわれの暗い精神に光をあてて認識を得させるためである。 『黙示録』(10章2節)に語られている、開かれた本を手にした天使は、そのことをあらわしている。
- 第三に、われわれのなかにあるすべての完全なものをいやがうえにも強め、鼓舞するためである。『列王紀上』(19章5節から8節まで)に、天使がエリアに焼け石のうえで焼いたパンと一瓶の水をあたえ、これを食べて力づいたエリアがついに神の山ホレブに着いたという話が出てくるが、これはそのことをあらわしている。
天使たちがわれわれの兄弟であり、同胞であるためである
われわれが天使たちを尊崇しなければならない第三の理由は、彼らがわれわれの兄弟であり、同胞であるためである。
というのは、すべての選ばれた者は、天使たちの群れのなかに加えられるからである。
- 上級の隊に加えられる者もあれば、
- 中級の、
- あるいは下級の隊に
入れられる者もある。これは、それぞれの功徳の違いによる。ただし、天使の全軍勢よりも上位に挙げられた聖母だけは、ベつである。
これについては、聖グレゴリウスも、ある説教のなかでつぎのように語っている。
「もって生まれた天賦のものはごくわずかでも、それをなおかつ隣人たちに分かちあたえる人たちがいる。 こういう人たちは、いちばん下位の天使たちの仲間に加えられる。
天主にかかわる事柄の深い隠れた意味を理解し、それを世に教える人たちがいる。 この人たちは、大天使のところまでのぼっていく。
しるしをおこない、大きな力をもって世に尽くす人たちがいる。 この人たちは、力天使の仲間になる。
祈りの力と自分にあたえられている権能で悪霊を追いはらう人たちがいる。 彼らは、能天使の仲間になる。
自分にあたえられたもろもろの力で聖人たちの功績をもしのぎ、選ばれた兄弟たちに命令をくだす人たち。 こういう人たちは、権天使の仲間になる。
みずからの内部のあらゆる悪徳を克服し、その清らかさのために世人から神とも仰がれている人たち。 主がモーセにむかって、〈わたしは、あなたをファラオにたいして神のごときものとする〉(『出エ』7章1節)と言われた言葉にふさわしいような人たち。 こういう人たちは、主天使とともに住む。
主が御座にすわるようにその内部にやどって、人びとの行為をお裁きになる人たち。 聖会を治め、すべての信者たちの弱きわざを裁く人たち。 この人たちは、座天使のもとに行く。
ほかのすべての人びとにまさって神と隣人にたいする愛にみちみちている人たち。 彼らは、智天使のなかに加えられる。 というのは、智天使とは、知恵にみちていることであり、律法をみたし実行することは、パウロ(85章)によれば、愛だからである。
さらに、永遠の観想にたいする愛に燃え、造物主を観想することのほかにはなにも求めない人たちがいる。 彼らは、この世ではもはやなにも望まず、永遠への愛によってのみ生き、いっさいの地上のものを脱ぎすてる。 彼らのこころは、現世のはるかかなたにむけられている。 彼らは、愛し、燃えたち、みずからの愛の炎のなかにやすらっている。 彼らの愛は、火であり、彼らの言葉は、ほむらである。 そして、その言葉のとどくかぎり、森羅万象を神への愛の火焰のなかに燃えあがらせる。 この人たちの召されていくところは、熾天使のもと以外のどこにあるだろうか」
聖グレゴリウスは、このように述べている。
天使たちがわれわれのたましいを天にみちびいてくれるためである
われわれが天使たちを尊崇しなくてはならない第四の理由は、天使たちがわれわれのたましいを天にみちびいてくれるためである。 天使たちは、これを三つの手順をふんでおこなう。
- まず第一に、彼らは、道を準備する。 これについては、『マラキ書』に、「見よ、わたしは、わが天使を遣わす。 彼は、わたしのまえに道を備える」(3章1節)とある。
つぎに、天使たちは、この備えられた道を通ってわれわれのたましいを天にみちびいていく。 『出エジプト記』に、
「見よ、わたしは、使いをあなたのまえに遣わし、あなたの道を守らせ、わたしが備えたところにみちびかせるであろう」(23章20節)とあるのが、それである。
さらに、天使たちは、たましいを天国に入れる。 「ルカによる福音書」に、
「やがて、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムのふところにつれていかれた」(16章22節)とあるのが、それである。
天使たちがわれわれの祈りを神のまえにとどけてくれるためである
われわれが天使たちを崇敬しなくてはならない第五の理由は、彼らがわれわれの祈りを神のまえにとどけてくれるためである。 これにも、三つの手順がある。
まず、天使たちは、われわれの祈りを主のまえにもっていく。 『トビト書』(12章12節)に、
「あなたが涙ながらに祈り、死者を葬ったとき、わたしは、あなたの祈りを神のまえにもっていった」とあるのが、それである。
つぎに、天使たちは、神のまえでわれわれのためにとりなしてくれる。 『ヨブ記』(33章23節)に、
「もし千人の天使たちのうちのひとりがその人のためにとりなし、その人の義しさを告げてくれるならば、神は、その人をあわれまれる」とある。
また、「ザカリア書」(1章12節)には、
「すると、主の御使いは言った。 〈万軍の主よ、あなたは、いつまでイスラエルとユダの町をあわれんでくださらないのですか。 あなたがお怒りになってから、もう七十年にもなります〉」とあるが、使は、こう言ってイスラエルをとりなしたのである。
三番目に、天使たちは、神のご判断をわれわれに告げる。 『ダニエル書』(9章23節)に、お告げの天使ガブリエルがダニエルのところに飛んできて、
「あなたが祈りはじめたとき、主のみ言葉が出た」と告げるところがあるが、注解書は、「これが神のご判断なである」と述べている。 『ダニエル書』は、そのあとさらに「わたしは、それをあなたに告げるために来ました。 あなたは、大いに愛せられている者です」と記している。
聖べルナルドゥスは、『雅歌』について述べたくだりでこの3つの手順をこう言っている。
「天使は、愛しあうふたりのあいだを駆けめぐり、花嫁の誓いを花婿に伝え、花婿の贈りものを花嫁にとどけ、花嫁に恋心を呼びさまし、花婿の気持を花嫁にやさしくさせる」。
天使たちが永遠の王のけだかい騎士であるからである
われわれが天使を崇敬する六つ目の理由は、天使たちが永遠の王のけだかい騎士であるからである。 『ヨブ記』(25章3節)には、
「その軍勢は、教えることができようか」とある。
ところで、だれでも知っているように、世俗の王の配下の騎士たちのなかには、
- いつも宮廷にいて、王の相手をつとめ、王をたたえ慰める歌をうたう者もあれば、
- 町や城を守る者もあり、
- 敵にむかって戦いをいどむ者もある。
それとおなじように、主キリストの騎士のなかにも、宮廷すなわち最高天に住まい、つねに主のお相手をつとめ、主をたたえ慰める歌をうたい、(『黙示』7章7節から12節まで)
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる天主」
「賛美と栄光と知恵が、世々かぎりなくわれらの神とともにありますように」ととなえる者もあれば、
町や国や村や城を守る者もある。
これは、われわれを守るために遣わされた天使たちで、童貞や貞潔な人たちや夫婦、さらに修道士たちの家を見張る。 『イザヤ書』(62章6節)に、
「イェルサレムよ、わたしは、あなたの城壁のうえに見張り人をおいた」とあるのが、それである。
さらにまた、神の敵である悪魔と戦う者もある。『黙示録』に、
「天では大きな戦いが起こった。 ミカエルとその配下の天使たちが竜と戦ったのである」とあるのが、
それである(この天は戦う教会をさすという解釈がある)。
天使たちが悲しめる人間たちをなぐさめてくれるからである
われわれが天使たちを尊崇しなくてはならない七番目の、そして最後の理由は、彼らが悲しめる人間たちをなぐさめてくれるからである。 『ザカリア書』(1章13節)には、
「わたしにねんごろな慰めの言葉をかけてくれた天使」とあるし、
『トビト書』(5章10節)では、
天使が「元気を出しなさい」と言ってトビアスをなぐさめる。
天使たちは、三通りのしかたで慰めをあたえる。
まず、力と強さをあたえる。 『ダニエル書』(10章19節)で、天使が地に伏していたダニエルにさわって、
「怖れるにはおよばない。 安心しなさい。 こころを強くし、勇気を出しなさい」と言うのがそれである。
つぎに、天使たちは、焦りやせっかちから守ってくれる。 『詩篇』(91章11節から12節まで)に、
「主は、あなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせる。 天使たちは、その手であなたを支え、石に足を打ちつけることのないようにする」とある。
- さらに、天使たちは、悲しみをしずめ、やわらげてくれる。 『ダニエル書』(3章19節以下)に、火のなかに投げこまれた三人の青年のところに主の御使いが舞いおりてきて、朝の風に吹かれたように炉のなかを涼しくしたという話が出てくるが、この物語は、そのことをあらわしているのである。